本日の主日礼拝は10:30-11:40です。私たちとともにオンライン上で神様に礼拝をささげたい方、大歓迎です。チャンネルは礼拝開始15分前から開き、開始5分前には会堂内の音響が流れ礼拝に向け、堂内の皆様とひとつ心になって備えることができます。説教要旨は以下の通りです:

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2023年8月27日 主日礼拝説教要旨
聖 書:マルコ7:31-37
説教題:イエス-すばらしいお方ー

2023年8月27日 主日礼拝説教要旨
聖 書:マルコ7:31-37
説教題:イエス-すばらしいお方-
 「医は仁術やのうて、医は算術やからな。」これはラジオ1回、テレビで6回、漫画化1回、更には関西地区でこの22日まで再放送されていたという、『白い巨塔』(原作・山崎豊子)中の名セリフだ。語ったのは主人公、財前五郎の義父、財前又一。たたき上げの町医者で、医師会の副会長に上り詰めるも、大学教授という肩書に劣等感と執着をあわせ持つ、俗物の極みのような人物である。個人的には2003年版(主演・唐沢寿明)のかつらをかぶった西田敏行の名演技が忘れられない。
 閑話休題。今朝の箇所は「外地」からガリラヤに戻ってきたイエスの前に1人の「耳が聞こえず口のきけない人(原文ママ)」が連れてこられ、イエスが彼をいやすというストーリーである。もちろん厳密にいうならばイエスがしたのは奇跡であって、医学的な治療ではない。しかし彼のしたヒーリングの中には確かにあの「医は仁術」の「仁(他者に対する愛・慈しみ・理解・調和)」に溢れている。以下みことばに耳を傾け、イエスの素晴らしさを分かち合いたい。
Ⅰ.「利他」の徹底
イエスのいるところに群衆あり。人気者の宿命である。その中にいた人々が、一人の「耳が聞こえず(その結果)口のきけない人」をイエスの身もとに連れてきたのだが、33節の「彼ひとりを群衆の中から連れ出し」が実に興味深い。要はこの奇跡は公衆の面前ではなく、恐らくは主とその弟子たち、当事者とその友いう限られた人々の中で行われたということである。主がこのように人払いをして奇跡をおこなったのはあの会堂司ヤイロの娘のいやし(参:マルコ5:40)などのケースもあり、その最大の理由は当然「メシアの秘密」の故であった。解釈者の中には「イエスが『話すな』と言ったのは「するなと言えばしたくなる」人間心理をよくわかっていたからだ等といううがった見方をするものもいるが、それはひねり過ぎである。だが敢えてもう一つイエスが人払いをした理由を挙げるとすれば、それはイエスの奉仕が徹底して利他的であったからだと言える。イエスは今日の多くのヒーラーたちと違い、いやされた、解放された人々を広告塔として消費しなかった。むしろひたすらにその悲しみに共感し、憐み、奇跡を行い、あとは静かに去って行かれたのだった。
Ⅱ.丁寧な説明
 33節には群衆から離され、イエスと1対1になった耳が聞こえず、話すこともままならない人に対するイエスの行動が描かれているのだが、これまた実に興味深い。イエスは開いているが聞こえない彼の耳(の穴)に指を差し入れ、つばきをしてもつれたままの彼の舌に触れた。どうみても気持ちの悪い行動であるし、そもそもこの当事者の知り合いが願った「手を置く」ことに合致もしない。他方これだけ詳細な行動なのだから、こうした動作の中には一定の意図があると考えるのは当然である。ある注解者は「イエスはその人の現在の必要、いやしの過程、いやしの源泉をこの耳のきこえず、口のきけない人自身が理解できる方法でなしとげるためにそのようにした」と言っているが、成る程である。思えばこの男は聴覚を失い、結果としてコミュニケーションが阻害されていたものの、その触覚と視覚は確かであった。だからこそイエスは彼が癒しを必要としている箇所にご自身のからだを接触、いや差し入れることによって、何が彼の問題であり、且つ誰が問題の解決者であるかをこれ以上ないほどに表現されたのであった。そのうえで、イエスは弟子たちや彼を連れてきた人々にアラム語でエパタ、即ち「開けよ」と命令し、実際聞くことと話すことが同時に可能になるという奇跡が起こった。こうしてイエスはだれがいやし主であるかを明瞭に説明されたのだった。
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 はじめてそのバンドを意識したのは大学4年の時。バイトしていたガソリンスタンドで2歳下の青年が「大坂さん、マジでヤバいんすよ、奴らライブハウスで火ィ焚いちゃうんだから」といってテープ(!)を渡された時だった。恐ろしいほどの爆音と熱量に圧倒された。伝説のバンド、「X JAPAN」である。そのボーカルだったToshlさんが、12年に渡って洗脳されていたというのは有名な話。売れ続けていく中で増大する悩みに巧みに近づき、気が付けば彼はその団体の「広告塔」に。思うに彼の痛みは彼が心酔(のちに洗脳)した教祖によって「搾取」され続けたことにあるのだろう。私たちの救い主はこうした「癒し」や「解放」をうたいながら人を搾取する教祖たちとは違う。求めに応じて個別に接し、いやしの源泉について教えて癒しつつも、恩を着せて彼らを搾取したりはしない、それが我らの主、イエスキリストである。かの日の人々はイエスのなさった事を素晴らしいと言ったのだが。私たちは今日こう言いたい。「イエス様はすばらしい」と。アーメン。

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