内容は現地案内看板や資料を基に作成していますが、様々な解釈があり史実と異なることがありますのでご承知ください。
朝倉氏が織田信長によって滅ぼされた後、この国を治めるようになったのは織田家家臣のなかでもNO.1の地位であった柴田勝家です。勝家は越前の一向一揆を平定し、現在の福井市に大きな城を築きます。柴田勝家が築いた北ノ庄城がどのような城であったのか、いまのところよくわかっていません。のちに家康の子である結城秀康がほぼ同じ場所に城を築いたからです。秀康が築いた城は後に福井城と改名され現在でもその遺構を確認することができますが、福井城は勝家の北ノ庄城を結城秀康が改築したともまったく別の城として築かれたともいわれており、謎だらけなのです。ただ、勝家が築いた北ノ庄城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置にあったと言われ、石垣が発掘されています。河川が合流する場所は何もしなくても複数方向が防御できるので城を築くには絶好の場所。勝家の北の庄城もこの合流点に築かれたのです。北ノ庄城は7層の天守があがる、信長の安土城に匹敵する巨城であったと言われています。宣教師のルイス・フロイスは、「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」と記録しています。徳川家康の子結城秀康は関ヶ原の戦いにおいて上杉征伐に参加し、そのまま宇都宮城にとどまり上杉氏への守りに備えました。上杉軍が攻めてくることはなく、ひたすら城を守っていたのですが、関ヶ原の戦いの戦功第一位とされ、越前の太守に封ぜられたのです。秀康が築いた城は後に福井城と改名され、現在もその遺構を確認することができます。

20 Comments

  1. 余り秀吉からひどい育て方はないように見えたから、もし生きていたら夏の陣か冬の陣に豊臣として参陣してたのかも知れないですね✨

  2. 動画にあるように、本丸跡には県庁や警察本部があってめっちゃ無粋!福井城も木造復元の動きがあるようですが、まずは威張ったように立っている公僕の城をぶち壊す必要があると思います。近くにある養浩館庭園はとても素敵です。

  3. 静かな語り口で落ち着いて観られました。しっかりした時代背景も紹介されており
    分かり易かったです。ありがとうございました。

  4. 福井県好きです。三方五湖で貰った梅干しのおにぎり美味しかった。
    また行きたいなー。

  5. 幻の北ノ庄城天守は、信長死後に建造されたのでは?勝家も遠慮して、安土城に匹敵する巨城はさすがに築城しないのではと・・・。

  6. 柴田勝家。
    司馬遼太郎の小説では調略下手の単純バカという扱い。
    成り上がり秀吉の悪知恵に負けたのだ。

  7. この城址の1番の見所は平日8時代です。かつて数百年前権力者が通った堀を渡る橋を、今も県知事、県職員、県警本部長、県警職員等権力者が闊歩していきます。肩で風を着るように他を寄せつけない雰囲気で歩いていく様子は数百年前を彷彿とさせます。その様子を撮影すると県警職員が飛んでくる程の特権を有している彼らの行進は一見の価値があります。

  8. 福井城本丸の天守や櫓が復元されるなら笏谷石が屋根瓦に不断に使用され、中の現代建築物が在るとはいえ、相当見栄えがすることでしょう。結城秀康ですが松平ではなく德川に復姓したとの説があります。息子忠直改易後松平に格下げ(德川は四家のみ)となった様です。

  9. 福井も、会津若松と同じく敗者の地を感じる地ですね。新田義貞や、朝倉氏、柴田氏ですね。会津若松は、芦名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、松平氏と、滅ぼされたとか、領有したらすぐ追い出されたとかそんなのばっかで。ナチスも白虎隊を見学して、しばらくしたら、同じようになっちゃいました。

  10. 櫓を再建する計画が
    有るらしいですね。
    そのうち天守も再建される?かも

    県庁や市役所は後
    何十年すると移転する
    らしいですから。

  11. 秀吉が戦で負ければ、柴田勝家はこれまで通りに織田家の家臣筆頭として君臨すべく、織田家血統の者を集めて織田家再興を図っていただろう。
    だが徳川家康やいまだ平定出来ていない九州地方や、関東地方及び東北地方の武将の動き次第で、どうなるかは分からない。

Write A Comment

Pin