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23 Comments

  1. 9.
    件づけられた愛を強制し、無条件の純粋な愛を弾圧しようとしていることが分かる。この発言は行為の弾圧ではなく、思想の弾圧である。

    また未成年者の結婚について、高橋氏の「親の同意がなければならないので、それは事実上難しい。」という発言から、高橋氏は結婚の当事者である子供の自由意思や自己決定権よりも、結婚の当事者ではない親の意志と決定権を尊重しているということが分かる。しかしこれは、民法737条1項に「未成年の子が婚姻をするには、父母の同意を得なければならない。」と記されていることから、高橋氏個人の思想ではなく法律の根底を支えている思想そのものであると言うべきである。子供の自由意志と自己決定権は、親の意志と決定権に帰属する、すなわち子供は親の所有物であるという思想である。しかしこの、子供は親の所有物であるという思想は、神の教えでは否定されるべきものであることを以前私は論じた(福音の弁明と立証81参照)

  2. 10.

    ★今回の捜査における危険性の指摘

    また今回の捜査は、相手の方本人が私に好意を持っているという可能性は全く除外された。私が何回か担当刑事に「相手の方が私に好意を持っている可能性があります。」と言うと、頭ごなしに「それは全くあり得ない」と決めつけ、一切耳を貸さず、全然取り合おうとしなかった。その様子はむしろ意図的にこの可能性を排除しているようにも感じられた。また私は2016年12月13日(火)、担当検事に、相手の方本人が私に好意を持っている可能性から、カードについてある捜査を依頼した。しかし担当検事がある人物にこの捜査の許可を求めたところ、その人物が「捜査は望まない」と返答したために却下され、行われなかった。何らかの忖度があると考えるのが自然だろう。そもそも捜査というものは真実性や公平性を期すため、あらゆる可能性を排除してはならないはずである。しかし今回、捜査のこの大原則は守られなかった。初めから結

  3. 11.
    論ありき、シナリオありきの捜査、まことに恣意的な捜査であったと言わざるを得ない。私が敢えてこれを指摘するのは、もし相手の方が私に好意を持っているとしたら、今回の事件は結果的に国家権力が相手の方本人の自由意志と自己決定権を蹂躙したことになり、国家権力が相手の方本人に対して、取り返しのつかない、看過できない重大な人権侵害を犯したことになるからである。誰を好きな人として選ぶのかという意志と、誰を選んで結婚するのかという決定権はたとえ未成年であっても本人だけに帰属するものである。なぜなら誰を好きな人として選ぶか、誰を選んで結婚するのかという問題は言うまでもなく、成年・未成年にかかわらず人間が幸福に生きるために非常に大切なことだからである。この自由意志と自己決定権は、たとえ国家権力であろうと親権者・監護権者と呼ばれる人であろうと決して侵害してはならないのである。

    ★無条件の愛を否定・弾圧する邪悪な

  4. 12.
    思想に対する反駁

    私は先に条件づけられた愛を邪説であると言って、正邪つまり善悪の価値判断を下した。条件づけられた愛が邪説であることの根拠は聖書にある。すなわち主イエス・キリストの教えの中で最も大切なものは次の2つである。一つ目は「イスラエルよ、聞け、私達の神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」であり、もう1つは「隣人を自分のように愛しなさい。」である(福音の弁明と立証32参照)。
    「愛しなさい」とあることから分かるように、神の教えでは愛することは実に命令である。「愛してよい」という許可でも、「愛してはならない」という禁止でも決してない。実際、主イエスは愛することを禁止したことは一度もない。主イエスは「愛しなさい」とだけ教え、愛することをひたすら命令するのみなのである。ただ聖書全巻を通して、人間が偶像を、つまり神で

  5. 13.
    ないあらゆるものを愛してはならないということは読み取れるが(福音の弁明と立証55,151,158/神学の森35参照)。
    だから人間が愛さなかったり、人間が何か自分に都合の良い理由をつけて愛することを禁止したり、何か自分に都合の良い理由をつけて愛することを条件づけて部分的に禁止したり、或いは人間に過ぎないにもかかわらず居丈高に振る舞って愛することを許可したりするのは、神に反逆する思想であり、唾棄すべき邪悪な思想に他ならない。このような思想をあたかも正当なものであるかの如く吹聴して奨励したり教え広めたりする人々や、このような思想に支配された人々は、悔い改めて福音を受け入れない限り、神に逆らう者として、神の裁判の際、罪に定められるということを知るべきである(福音の弁明と立証54-82参照)。今回の事件で明らかになった客観的事実はそっくりそのまま、来たるべき神の裁判における神に逆らう者に対する起訴状でもあるのだ。
    「主は御自分

  6. 14.
    に従う人が主に逆らう者の手中に陥って裁かれ/罪に定められることをお許しにならない」(詩編37編33節)
    「主に従う人を憎む者は罪に定められる。/主はそのしもべの魂を贖って下さる。/主を避けどころとする人は罪に定められることがない。」(詩編34編22-23節)
    しかし私はキリスト者である。主イエスの次の言葉を傾聴する者である。「私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者

  7. 15.
    となりなさい。」(マタイによる福音書5章44-48節)
    また「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ローマの信徒への手紙12章9,14節)という言葉を実践する者である。だから私は、私を憎悪する者達に対して、私に対して物理的強制力を行使することによって無条件の愛を否定し弾圧する者達に対して、彼等が救われるように、神の裁判の際罪に定められることのないように、邪悪な思想に支配された奴隷状態から解放されるように、悔い改めて福音を受け入れて真に自由にされるように、祝福されるように、神に祈ろう。私は彼等を愛そう。そして私自身が、自分とは相容れない思想を持つ者に対して物理的な強制力を行使することを是とする人間とは、本質的に全く異なる人間で

  8. 16.
    あることを証明しよう。

    慈しみ深い神よ、あなたは造られた全ての人を愛し(福音の弁明と立証27参照)、罪人が死ぬことを望まれず、主に立ち帰って生きることを喜ばれます。どうかあなたを信じない人々、十字架にかけられたキリストへの信仰を拒む人々をみ心に留め、その気づかないでいることを悟らせ、み言葉を軽んじる心とかたくなな心とを除き、主イエス・キリストに従わせて下さい。そしてどうか彼らに祝福をお与え下さい。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願い致します。アーメン

    私は断言する。全ての愛は肯定されなければならない。偶像への愛を除いて。だからこそ、肯定された全ての愛においては、愛の秩序という視点が非常に重要であり、強調されるべきなのである。愛の秩序については以前、私は福音の弁明と立証の中で詳しく論じておいた(福音の弁明と立証41-45参照)。

    繰り返し言う。今回の事件

  9. 17.
    を通して客観的に明らかになったのは、私は物理的強制力を一切行使しなかったが、国家権力は私に対して物理的強制力を行使したという事実、また日本国はこれを法律で正当化しているという事実である。
    また今回の事件を通して、条件づけられた愛を肯定しこの思想に支配されている人達が、無条件の愛を肯定しこの思想に支配されている私に対して、物理的な強制力を行使したことによって、無条件の愛という思想を否定し弾圧したことが、客観的な事実として明らかになった。
    しかし、たとえいかなる脅迫や物理的強制力を受けたとしても、私は思想の弾圧に対しては決して屈服しない。ここに私は宣言する。条件づけられた愛を肯定し、邪説であるにもかかわらずこれをあたかも守るべき道徳規準や価値基準のようなものとして押し付け、厚顔にも人間を強制し、脅迫し、隷属させようとする思想に対しては、私は決してこれに支配されない。却ってこれを邪悪なものとして

  10. 18.
    徹底的に否定する。何歳以上は愛してよい、何歳以下は愛してはならない、というような、無条件の愛を禁止し、条件づけられた愛を強制する思想は、神に反逆する思想として直ちに粉砕されるべきである。徹底的な否定は絶対的な肯定を前提とする。私は神を肯定する者、すなわち心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主である神を愛する者である。だからこそ神に逆らう邪悪な思想、つまり偶像礼拝の思想は憤激をもって、これを否定せざるを得ないのである。

    ★全ての未成年者諸君へ

    未成年者諸君!今回私の身に起こった事件は君達と無関係ではない。事態は非常に深刻である。私の事態がではない、君達の事態がである。とんでもない事態が今や明らかになった。私の担当検事の次の言葉を聞き給え。「18歳未満は恋愛禁止。法律に規定がある。」「(未成年者の結婚について)親の同意がなければならないので、それは事実上難しい。」これらの言葉は

  11. 20.
    とは口が裂けても言わない。私は君達を真に愛する。ゆえに私は、現在侵害されている、君達の自由意志と自己決定権を徹底的に擁護するのである。君達が誰を好きな人として選ぶか、誰を選んで結婚するかは、本当に君達の自由である。この自由を居丈高にも制限したり規制したり禁止したりするのは、たとえそれをするのが国家権力であれ君達の親権者や監護権者であれ、人間の純粋性を破壊する許されざる越権行為であり、犯罪とされるべき人権侵害である。君達の自由意思と自己決定権は他ならぬ君達だけのものである。他の誰にも譲り渡してはならないのだ。国家権力にも君達の親権者や監護権者にも。だから君達は、自由意志と自己決定権は自分固有のものであり自分の基本的人権であると自覚的に主張すべきなのだ。無条件の愛を否定・弾圧する邪悪な思想も、子供は親の所有物であるという思想も、君達の自由意志と自己決定権を認めず、君達の基本的人権を侵害する

  12. 21.
    、神に逆らう邪悪な思想であるがゆえに、直ちに粉砕されるべきである。
    なぜならこの自由意志と自己決定権こそ未成年・成年にかかわらず人間の尊厳だからである。実際神は人間を創造した際、神を信じて神に従う自由も、神を信じないで神に逆らう自由も人間に与えたのである。まさに自由意志と自己決定権こそ人間の尊厳なのだ。しかし合理性や効率性を追求する、人間の浅はかな知恵や賢さから見れば、これは愚かなことと映るだろう。「なぜ神はそんな回りくどいものとして人間を創造したのか?全能であるのだから最初から自由意志と自己決定権など与えずに、全員神を信じて道からそれないロボットのようなものとして創造すれば面倒臭くなく、全く問題も生じないではないか?」と。しかし神は人間を敢えてそのようには創造しなかった。それは神が人間を愛しているからだ。まさに「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(コリントの信徒への手紙

  13. 22.
    Ⅰ1章25節)のである。
    だからこそ未成年者諸君!神から与えられた人間の尊厳である、この自由意志と自己決定権を奪ったり侵害したりする思想に対して、神を信じて、私と共に戦おうではないか!この戦いは暴力や強制力などの物理的な力によるものではない。あくまでも内的で静的な思想によるものである。洞察力や直観力が鋭い人は既に気がついていると思うが、成年・未成年にかかわらず日常生活において今やこの人間の自由意思と自己決定権は危機に瀕していると言うべきである。自由意志と自己決定権を侵害するものは、これから徐々に人間ではなく、人間の作り出した法律や社会システム、AIや人工知能などといったものになり、見えない形で確実に進行していく。事実、現在まさに進行中である。これらのものは勿論、人間が主人として用いる道具としてあるならば、存在してよい。しかし、これらのものが主人となって人間の尊厳である自由意志と自己決定権を奪

  14. 23.
    い去るのであれば、決して存在してはならない。しかし人間は目の前にある日常生活の利益を最優先し、利便性と功利性を追求するので、喜んで自ら自由意志と自己決定権をこれらのものに譲り渡し、喜んで自らこれらのものの奴隷になる。つまり偶像礼拝をするようになる(福音の弁明と立証55,151,158/神学の森35参照)。この流れはもはや止めることはできない。だからこそ思想的に戦い続けることが必要なのだ。
    未成年者諸君!君達は純粋な愛を求めている。私もそうである。そして周囲には純粋な愛がないことに絶望する。私もそうである。しかし私は言う。純粋な愛は確かに周囲にはないが、決して絶望したり、嘆き悲しんだりしてはならない。また純粋な愛を諦めたり、まして周囲の惰性に流され、功利的・打算的な不潔な愛に妥協したりしてはならない。純粋な愛とは所与のものではない。純粋な愛とは我々自身が激しい決意と覚悟をもって絶望と対決し能動的に造り上げてゆく

  15. 24.
    ものなのだ。そして純粋な愛はただ主イエス・キリストが示されたのである。だから、この方を信じ、古い既存の固定観念や古い既存の社会常識にとらわれず、勇気と希望をもって苦難と困難を乗り越え、私と共に純粋な愛を新たに造り上げてゆこうではないか。
    未成年者諸君!君達は私の福音の弁明と立証を読めば、誰が真理に属しているか、誰が真に正しい人であるか、お分かり頂けたと思う(福音の弁明と立証13-47参照)。また正しい人であるということと合法的な人であるということは全く別のことであるということもお分かり頂けたと思う(福音の弁明と立証48-49参照)。正しい人とは、自分の実存を公けに明らかにし、神を信じて福音を受け入れ、洗礼を受けて罪を赦され、神によって正しくされた人である(福音の弁明と立証53,82-92参照)。私がそうである。今回の事件について言えば、私の担当刑事も私の担当検事も自分の実存を公けにはせず、自分の実存を覆い隠したままで

  16. 25
    ある。実際彼等は私の携帯電話・パソコン・デジタルビデオカメラ・書籍などを押収し、中に入っている動画・画像・インターネットの接続履歴・交友関係などを全てくまなく調べたり、私の舌の表面からDNAサンプルを採取したりして調べたりしたが、自分達についてのものを調べられることを欲しなかったし、また調べもしなかったのである(福音の弁明と立証3参照)。そして人間の法律や裁判では、これは合法とされ正当化されている。しかし神の裁判では、このような人間の御都合主義によるごまかしは一切容赦されない(福音の弁明と立証54-82参照)。全ての人が実存を公けにされ曝かれるのである(福音の弁明と立証88参照)。
    人間は古来より洋の東西を問わず、自分の実存を覆い隠して、自分を正しい人であると偽り正しい人を演じて生きている。しかしそのようなグロテスクな茶番劇は、いい加減に終止符を打つべきだ、慈しみ深く憐れみ豊かな神が今や主イエス・キリ

  17. 26.
    ストによって人間に救いの道を開いて下さったのだから、神の福音を信じて受け入れ、このような生まれながらに神の怒りを受けるべき状態から救われ、直ちに神と和解するべきだ、というのが日頃の私の主張である。そしてこれは私の主張というよりも、世の終わりと神の裁判を迎えるにあたっての、つまり世界が完成を迎えるにあたっての、人間に対する神からの愛のメッセージなのである。
    それだから未成年者諸君!君達は、既存の人間社会の惰性に流されてこのようなグロテスクな茶番劇を自らも演じる者になってはいけない。またいつも既成権力のお先棒をかついでいれば責任を果たしたものと考えるプロパガンディストになってもいけない。両者共に安住自足しており、容易であるが故に当然の如く思われるが、それは致命的な錯覚である。なぜなら主イエスは次のように言うからである。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから

  18. 27.
    入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイによる福音書7章13-14節)と。
    グロテスクな茶番劇を演じることもプロパガンディストになることも、その門は広く、その道も広々としている。現実に多くの者がその広い門から入るし、多くの者がその広々とした道を歩んでいる。しかしその広い門とその広々とした道は、実は滅びに通じているのだ。君達は滅びてはならない。君達は命に通じる狭い門から入り、細い道を歩むべきだ。命に通じる狭い門から入り、細い道を歩むというのは、神の福音を信じて、古い行動原理を否定し(福音の弁明と立証96-106参照)、罪の赦しという神の恵みを受けて、新しい行動原理に従い(福音の弁明と立証107参照)、神によって正しい人とされることである(福音の弁明と立証53,82-92参照)。グロテスクな茶番劇を演じることもプロパガンディストになることも、古い行動原理に支配され

  19. 28.
    た古い人類の所産である。古い行動原理に支配された古い人類の時代は終わった。それは既に過去のものである。新しい行動原理に支配された新しい人類の時代は、ついに主イエス・キリストの復活と聖霊降臨によって打ち開かれ、始まるのだ(福音の弁明と立証95,139参照) 。
    だから諸君!今こそ私と共に、命に通じる狭い門から入り、細い道を歩もうではないか。既に世に対して勝利したイエス・キリストを信じて、新しい行動原理に支配された新しい人類となり、思想的に戦うことによって、グロテスクな茶番劇を演じる者やプロパガンディストの高慢と虚言と偽善を叩き潰し、古い行動原理を粉砕して、私と共に新しい時代を切り開いていこうではないか。
    諸君は、新しい時代を切り開いていくのは、地位や名誉や財産に優れていることとか、高度な知識や技術とか、卓越した権力や武力や財力などのあらゆる人間的有能さであると教えられ、そのように思い込んでいるかも知れな

  20. 29.
    い。しかしそれは大きな間違いだ。そのような人間的有能さは新しい時代を切り開いていくのには無能である。なぜならそのような人間的有能さは、古い行動原理を否定することができないからだ。そのような人間的有能さは、この古い行動原理に支配された古い時代の惰性を絶望的に積み上げて固めていくことしかできないのだ。
    未成年者諸君!実際、私は君達の自由意志と自己決定権を守るためならば、また新しい行動原理に支配された新しい時代を切り開くためならば、自分が物理的に抹殺されることも社会的に抹殺されることも厭わない。自分の犠牲が人類の新しい時代を切り開く礎となるならば、私はむしろそれを喜ぶのである。
    私は断言する。新しい時代を切り開くのは決して人間的有能さではない。そうではなく、真の愛を追い求め、高邁な思想に殉ずることを厭わない純粋な青春の情熱と、聖霊の愛の火に燃え立たされた無限の革命精神こそ、新しい時代を切り開いて

  21. 30.
    いくのだ。
    それだから諸君!私と共にイエス・キリストを主と信じて、罪の赦しという人知を超えた神の恵みに頼り、主の名によって思想的に戦い、父と子と聖霊の名によって古い行動原理と徹底的に対決していこうではないか。実際、主イエス・キリストを信じる者と共に神はおられるのである。主イエスは「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」(マタイによる福音書28章20節)と言われ、また「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)と言われるからである。だから父と子と聖霊である神と共に、この古い行動原理に支配された古い時代にあって、勇者のように雄々しく戦い、ペシミスティックに哄笑しながら前進し、新しい行動原理に支配された新しい時代を切り開いていこうではないか。
    私はこれらのことを未成年者だけに語っているのだろうか。いや、むしろ神の言葉を聞くことのできる耳を持つ全ての人に

  22. 31.
    語っているのである。

    全能の神よ、あなたはこの世界を愛してみ子を遣わし、全ての人があなたとの完全な和解と交わりの内に生きることができるように望みまた働いておられます。どうか私達を導いてそのみ業を悟らせ、己を献げてこれを証しすることができるようにして下さい。また聖霊によってキリストの福音が正しく宣べ伝えられ、聞く人々はこれを信じ、古い行動原理に支配された、罪と死と悪魔の国は砕け、新しい行動原理に支配された、神の国の門は開かれ、分かれ散った羊の群れはついに一つの群れとなって永遠の命にあずかることができるようにして下さい。主イエス・キリストによってお願い致します。アーメン

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